《FIRST EXPERIENCE ON FIRST CLASS 》
8月15日頃ともなると、ボルネオから東京行きの便は満席だ。
クアラルンプール経由にしても一泊しなければならず、その上ビジネスクラスが満席でマレーシア航空のファーストクラスに乗ることになった。
この話がなければノーマルのビジネスクラスの切符を使ってその経路を変更し、バンコクからベトナムへでも旅して来ようかと考えていたのだ。
今ではバンコクのカオサン通りでベトナムのビザは簡単に手に入るのだし。
ところで、僕がいくら旅行者の間で『世界旅行家』として有名だとしても、普通は自分の金で旅行しているのだから、飛行機に乗る時はできるだけ安い切符を買ってエコノミークラスにする。
だから、ビジネスクラスに乗ったのも数えるほどだ。
でも昔、コロンボからバンコクにエアランカのビジネスクラスで飛んだ時は、2列前にスリランカ大統領が座っていたし、隣はイタリアから来たファッション関係のきれいな女の子だった。きちんとしたクイーンズイングリッシュをしゃべるというイタリア人には珍しく知的な人で、話もなかなか弾んだものだ。
とするとクアラルンプールから東京へのファーストクラスと言う話はなかなかおいしいかも知れない。
噂に聞いた所では、ファーストクラスではスチュアーデスが隣に座って、フルーツを爪楊枝で口に入れてくれたり、映画上映で暗くなると、ズボンを下ろして例のものを口に含んでくれるらしい。
これはベトナム行きよりも渋谷のファッションマッサージよりも楽しい。
ファーストクラスで東京へ直行しよう!
さっそくスチュアーデスに失礼にならない様に、一番いいパンツを捜す。
ボルネオ生活3週間で3つしかパンツを持って来てなくて(これが身軽な世界旅行者の特長だ)もう何度も手洗いしている。南米旅行以来のアルゼンチン製のパンツもあって、どれもどこか穴が開いてたりして、いいのが無い。
いいや!パンツは履かないことにしよう。
その方が、スチュアーデスも便利だろう。
クアラルンプール、スルタンイスマイル通りにある『エクアトリアルホテル』を朝7時にチェックアウトする。
ホテルの前でタクシーに乗る。
交通渋滞の始まる前なので30分で国際線用のターミナル1に着く。
料金はM$20。昨日国内線のターミナル2からホテルへはクーポン制でM$22だった。
今日の車は小さくて小汚いので安いのかしらん。
出国手続きを済ませて、残ったM$をUS$に両替して、余ったM$で切手を買い(マレーシアの切手はなかなかきれいだ)絵はがきを送る。
ゴールデンラウンジというビジネスクラスとファーストクラスの乗客のための専用休息所で休む。
しかし、ここにはビールが置いてない。
成田のラウンジにはビールもあるし、誰も食べないようにわざわざ乾いてぱさぱさした巻き寿司なんか置いてあるのだが。
出発のコールがあった。
ゆっくりと、一般庶民のたむろしている安っぽいプラスチックの椅子の並ぶ待合室に下りる。
東京直行便なので日本人が多い。
シンガポールをまわってきたらしい、お土産の袋を持ってるおばさんたちの団体がいる。
母親と小中学生の組み合わせが多いのはマレーシア赴任の企業戦士の家族なのだろう。
日本のためにご苦労さん。一般労働者諸君。
ファーストクラスの印、赤色のボーディングパスを持っていると余裕が出てくる。
誰か金持ちだと誤解してくれないかしらん。
女子大生ぽい日本人のかわいい女の子も結構いるので、そのまわりをファーストクラスの切符をひらひらさせながら歩く。
だーめだ、だれも僕がファーストクラスに乗るって解らないみたいだ。
世の中にはどんなチャンスが転がってるかわからないのだから、もっと注意深くして欲しいものだ。
あきらめて、ファーストクラスのキャビンに入る。
さて、どんなエリートが乗っているんだろうと見回すが、垢抜けない中年のおじさんおばさんばっかりだ。
この人たちも単にビジネスクラスが満員だったのでファーストクラスの切符を買ったという僕の場合と同じなのだろうか。
芸能人はおろか特に金持ちという身なりの人もいない。
がっかりだ。
しかし、さすがファーストクラスのキャビンは広い。
窓際に2席づつ1列に4席しかない(事情通の話に寄ると別の機種では1人づつ離れたシートの場合もあるそうだ)。
シートの幅も広いが驚いたのは前のシートとの距離だ。
シートに座ってベルトを閉め、足を水平に伸ばしても前のシートには届かない。
足下にディバッグを置いても何だかころころ転がりそうで落ち着かない。
スチュアーデスが僕の名前を確かめに来る。
これからあとは、何かあるたびに『ミスター・ニシモト』と名前で読んでくれる。
ついでに飲み物のオーダーを聞く。
僕はつい、いつもの癖でビールを頼んでしまう。
しまった!もっと高いものを頼まなければ。
しかし高いものとは何だろう。
高い飲み物は、ブランディぐらいしか思いつかない。
それでとにかくブランディを頼んで、ビールと交互に飲む。
次にはビールにブランディを混ぜてみる。
ウーン、これはとっても豪華だ。
頭がくらくらしてきた。
斜め向こうの席を見ると、シートの下から足置きの台を引っ張り出している。
なるほどああしてゆったりと座る訳だ。
金持ちはさすがに違う。
まるでサウナを出た後の休息室みたいだ。
そこで早速僕も引っ張り出してみる。
なかなか快適だ、ついでにシートの背を後ろに倒す。
そこにスチュアーデスがやって来て、サティーを置いて行く。
サティーとはまあ説明することもないようなものだが、簡単に言うと焼き鳥の出来損ないだ。
マレーシアやシンガポールの名物らしい。
チキンとビーフがあって、見た目は焼き鳥そのまま。
タレも旨そうにかかっているのだが、残念なことには甘いんだなこれが。
マレーシア人もサティーより焼き鳥の方が好きなんだという話だが、一度名物ということになってしまうと、それをなくしてしまう訳には行かない。
広島の紅葉饅頭みたいなものだ。
だから意地でもぴりっとしたサティーは作らないのだという。
おっとと、サティーのタレを白いシャツの上に落としてしまった。
あおむけに寝たまま食べていたせいだろう。
どうも食べにくいとは思っていたのだが。
それでシートの背を戻し、足置きを引っ込めようとする。
あれれ〜、抑えても元に戻らない。
まあこういうものは一度上にいっぱい引き上げた後で下へ抑えるものだ。
実家にある座椅子がそうなってたっけ。
それで座席に水平になる位まで上げる。そして下へ強く押す。
それでもびくともしない。
困った。もうすぐ豪華なランチが配られる予定なのだ。
パーサーを呼ぶ。足載せが引っ込まないと説明する。
彼も下へ押えつけるが、やはり動かない。
『おかしいですね。下へ降りるはずなんですが。また後で来ます』
マレーシア人にこう言われたら『あきらめなさい』という意味なのだが、このファーストクラスでもやっぱりそうであった。
仕方ないので足置きを出したままにして食事をする。
食事は、オードブルから始まるフルコースだ。
それはいいのだが、いちいち別々に持って来られるのが面倒だ。
昨日からトム・クランシーの『パトリオットゲーム』を読んでいる。
久しぶりに機内で貰った日本の新聞も読んでいた。
それは2つとも前の席の背もたれの後ろにあるポケットにいれてある。
エコノミークラスだと、席の間隔が狭くてすぐ手の届く所にあるのだが、ファーストクラスでは足を伸ばしても届かないのだからちょっと読んでは戻すという訳には行かない。
面倒なので読むのをあきらめる。
スチュワーデスに頼めばいいのだろうけれど、人をこんなことでこき使うというのは好きじゃない。
エコノミークラスと大きく違う所は、ワインのおかわりが簡単にできる所ぐらいだろうか?
といっても僕のようにエコノミークラスのベテランとなると、エコノミークラスでも酒は好きなだけ飲むけどね。
面倒なのは、いちいち話しかけてきて、一人でほうっておいてくれない所だ。
僕はグラスにいつもたっぷりのアルコールがあって、後は本を読んでさえいれば幸せなのだから、話しかけられるのはただ煩わしい。
着陸直前、シートの下にハンドルを見つけた。
いじってみるとずっと出っぱなしだった足置きが引っ込むではないか?
これは新しい発見だ(このことを東京でファーストクラスに乗り慣れた女の子に話した所『あたりまえよ。スチュアーデスが陰で笑ってたのよ、きっと』とコメントされてしまった)。
KUL−TYOの6時間半のファーストクラスの旅は無事終わった。
フルーツを爪楊枝で口に運んでくれることも、くわえたりしゃぶったりしてくれることもなかったが、いい経験だった。
『世界旅行家』として、また新しい地平を切り開いたといえるだろう。
でも、こんなどうでもいい所にお金を使って、疑似的な金持ち気分を味わう位なら、まだあちこちに残る旧植民地の面影を残したコロニアル風のホテルに、それが改装される前に(例えばシンガポールのラッフルズホテルみたいに近代的に改装されてしまえば、もうそれはラッフルズではないんだ)泊まるために金を使った方がずっといい。
近頃では、一クラス上の旅とか何とか理屈にもならないいいわけを使って、ビジネスクラスでの旅行を勧める人たちもいるが、それはただ航空会社の都合であって、長期旅行者の立場ではない。
エコノミークラスでのたかが10時間や20時間の旅に耐えられないようでは、インドやアフリカの現地のローカルバス旅行などは当然不可能だ。
ビジネスクラスやファーストクラスに乗らなければスチュアーデスから相手にしてもらえないような個性のない人間が、旅行の中身では自慢出来なくなった挙げ句、最後に取るどうしようもない手段がビジネスクラスで旅行するという言い訳なのだろう。
僕は少なくとも自分の金でビジネスクラスに乗るような堕落した旅行者にはなりたくない。
その金でもっと楽しめることを知っている。
だって、しゃぶってくれる訳でもないのだから。
【写真】クアラルンプールのエクアトリアルホテル
【旅行哲学】人間、自分の金でビジネスクラスに乗るようになったら、オシマイだ。