《インティファーダの中、アレンビーブリッジを渡り、エルサレムの夜に遠く砲声を聞く》 アンマン(ヨルダン)〜エルサレム(イスラエル)
《さて、駆け足でヨルダンでやったこと》 《アレンビー橋を越えて》
(注)この話は1988年の状況で、現在はかなり事情が違うと思います。あくまでも参考にしてねっ!
1988年8月17日
1:《さて、駆け足でヨルダンでやったこと》 1JD(ヨルダンディナール)=約420円
エジプトのヌエイバからアカバ湾をフェリーで渡ってヨルダンのアカバに着いた。
その後、豪華なエアコンがんがんの直行バスで首都のアンマンへ。
アカバの入国審査のときに知り合ったフランス人の「一緒にペトラへ行こう」との誘いを断った。
アンマンへ直行したのは、ここでやる事がいろいろとあったからだ。
とにかく、円のトラベラーズチェックをドルに替えなければならない。
ヨルダンの町は両替商だらけで、世界中のどの国の通貨でも交換出来ると聞いていたからね。
僕の持っているのは東京銀行の円のチェック、それも5万円券と2万円券なのでどこでも簡単に両替出来るわけではない。
両替屋で聞き回って、やっとインターコンチネンタルホテルで、まず東京銀行の円のT/CをJD(ヨルダンディナール)にして、それを町の両替商でドルにする。
手数料で損をしそうだが、ヨルダンでは手数料が非常に安い。
例えば2.64ドルで1JDと交換出来て、1JDは2.62ドルになるレートだ。
そのドルキャッシュの一部を、さらに1パーセントの手数料を払ってバンカメのT/Cにする。
なぜ、こんな面倒な事をしているかというとこれからシリア・トルコとヨーロッパに入って東欧中心に回るつもりで、どうしてもドルが必要だったからだ。
次はスニーカーを新しくした。
円のチェックを両替するためにインターコンチネンタルホテルへ行った時、大きな鏡で自分の姿を見てぞっとしたからだ。
小指がスニーカーからはみだしている。
右の靴の底は半分剥がれて、歩くとぱたぱた音を立てる。
さらに履いているジーンズはロンドンで買った香港製で、これも歩いているとジッパーが自動的に降りてくるという不思議なものだ。
そのジーンズも破れ目をナイロビで繕ってあるのがなかなか粋だね。
アンマンのファッション街へ行って、そこで気張って『ナイキ・エアー』の最高級のものを38JD(約一万四千円)出して買った。
ヨーロッパに入って服がぼろぼろでもなめられてはいけないと思ったからだが、この靴は実は韓国製のとんでもない贋物だった。
どうゆうわけか、歩いていると靴ひもがほどけてくるのだ(涙)。
これからまずイスラエルへ行くのだが、その前にシリアのビザを取っておく。
イスラエルから帰ってきたらすぐにシリアへと向かうつもりだからだ。
シリアのビザを取るためには、まず日本大使館から『推薦状』をもらって、それを持ってシリア大使館へ行く。
その日に15日有効のビザが降りた(これは別の『国境を越える』で詳しく書く)。
ペトラの遺跡には豪華なJETTバスで行った。(この話は『PETRA』という遺跡シリーズで書くことにする)
僕は中近東のガイドブックを持ってなくて、アンマンに着いた時に"FORD'S JORDAN AND THE HOLY WORLD" を6JD(2500円!)で買ったがその日になくしてしまった。
ペトラから帰りのバスで隣に座ったユーゴスラビア人が"West Asia on a shoestring" を読んでいて、アンマンまでのバスの中では旅行の話で盛り上がった。
2人ともイスラエルへ入った後、彼はこれから僕とは逆にエジプトへ向かうし、僕はシリアへと向かう。
そこで僕の持っている"Africa on a shoestring"と交換しようと持ちかけたのだが、彼は嫌なようだった。
そこで本を借りて、イスラエルへの国境の越え方はバスの中ですっかりメモしてしまった。
2:《アレンビー橋を越えて》
さて、イスラエル入国の問題を話しておこう。
アラブ諸国はイスラエルと敵対している。
なんとか仲がいいのはエジプトだけで、1978年のキャンプデービッド合意以来その国境は開かれていて、カイロ〜テルアビブ、カイロ〜エルサレム、カイロ〜エイラット間には直行バスがある。
だからこの2国だけを旅行するのなら何の問題もない。
しかし他のアラブ諸国を旅行するのなら、イスラエルに入国した証拠が残れば入国拒否にあう。
イスラエルはそのことがよく分かっているので(ユダヤ人は馬鹿じゃない)入国や出国の時はパスポートではなく別紙にスタンプを押す。
こうしてイスラエルに入国した形跡がなければ、そのパスポートでアラブ諸国をいくらでも旅行出来るというわけだ。
しかし、イスラエルがスタンプを押さずとも隣国のエジプトは押す。
エジプトの出国スタンプがイスラエルとの国境の町で押してあれば、イスラエルのスタンプがなくてもイスラエルに行ったのはミエミエだ。
だからエジプトからイスラエルに入国した後でヨルダンに抜けるのは無理という事になる。
さて、隣国ヨルダンの事を考えてみよう。
ヨルダンからイスラエルに入ってまた戻ってくる事は可能だ。
なぜかというと、イスラエルはヨルダン領のウエストバンク(ヨルダン川西岸地域)を占領している。
ヨルダンはそれを認めない建前を取っているので、ヨルダンからイスラエル占領下のウエストバンクへの入域許可証があればウエストバンクへ入れる事になる。
ところがイスラエルはウエストバンクをイスラエル領と考えているので、ウエストバンクだけでなくイスラエル中を旅行出来るというわけだ。
もちろん(ヨルダンから出てない建前だから)ヨルダンへと戻れる。
つまりウエストバンクがグレイゾーンになっていて、互いにそれをうまく利用しているというわけだ。
昔はまずヨルダンに入ってイスラエルを尋ね、それからヨルダンへ戻るというコースだけが可能だった。
今では非アラブ諸国からイスラエルに入った後イスラエルからヨルダンへ入国出来るという話もある。
もちろんこの場合もヨルダンのビザを持っていて(イスラエルにはヨルダンの大使館はない)イスラエルのスタンプがパスポートに押してない場合に限るという事だ。
つまり、ヨルダンは見て見ぬ振りをしているという事なのさ。
こういった事は他でもよくある。
例えば中米のグアテマラは隣国ベリーズを認めていない。
もともとベリーズはグアテマラ領だという主張をしている。
つまり、グアテマラにはベリーズ大使館がない。
よって、グアテマラではベリーズのビザが取れない。
しかしティカルからベリーズに抜けようとする人は多いわけで、特に問題のない場合は国境でビザを発行している。(1993年現在ではグアテマラにベリーズ大使館も出来てビザも取れる。しかし、国境で3日有効のトランジットビザを取れるので通過するだけならこれで十分だ)
さて、アンマンでウエストバンクパミット(ヨルダン川西岸地域への入域許可証)を取らなければならない。
アンマンへ着いた翌朝早く内務省まで歩いていった。
アカバから到着した時、JETTバスターミナルの横の本屋でアンマンの地図(2.75JD=1100円!)を買っていたので場所は分かる。
ただどのサービスタクシー(乗り合いタクシー)に乗ればいいのか分からない。
こういう時は歩くに限る。
歩いた方が時間的にも案外短いし、町の様子もよく分かるのだから、旅行者はとにかく歩かなければならない。
受付は午前11時前まで。写真一枚と50fils(21円)の印紙を買い、手数料1.5JDを払ってパミットを申し込む。
2日後の15日午前11時にパミットを入手。
それからJETTバスを予約する。
料金2.5JD。
午前6:30出発で6時にレポート(乗り場にやって来いってこと)するようにといわれる。
出発は2日後の8月17日。
イスラエルから帰ってくればすぐにシリアに行くつもりなので、前日までビザの手配・両替・絵はがき出し・買い物などと結構ばたばたと動いていた。
アンマンは非常にきれいな町だ。
しかし、物価はかなり高い。
ペプシコーラが20円なのに、ビールは酒屋で買って大びん1本が250円する。
泊まっているのがダウンタウンのキングタラル通りに面した安ホテル。シングル一泊3JD。
部屋に比べてタイル張りのアラブ式トイレが大きくてとてもきれいだ。
キングフセインモスクからJETTバスのターミナルまでは、ルートのよく分かっているサービスタクシーで行く。
アンマンは7つの丘とその間の谷からなる大都市だが、ダウンタウンは文字通り谷間にあるのでJETTバスのターミナルまではかなりの上り坂なのだ。
だから逆に歩くのなら下り坂で楽なので、いつも歩いていた。
JETTバスは午前6時半、時間通りに出発した。
中型バスで乗客は5人。
一日1本のバスにしては少ない気もするが、現在はパレスチナ人のインティファーダの最中で、これから僕が渡るヨルダン〜イスラエル国境(おっと失礼、これは国境ではないのかな)のアレンビー橋(ヨルダンではこれをキングフセインブリッジと呼ぶ)がTIME誌の表紙にもなった時期なのだ。
普通の観光客はこの時期はぐっと少ない。
僕のような神に導かれたものだけが、無鉄砲にも国境を越えるというわけだ。
7時半にヨルダン側の検問所に到着。
パスポートと西岸パミットを見せて検問を受ける。
1時間ぐらい待って、8時半に別のJETTバスが到着。
これでヨルダン川にかかる本当に短いアレンビー橋を越えるのはあっという間だ。
次はイスラエルの入国審査。
荷物を渡し金属探知機をくぐる。
身体検査をするのはイスラエルのぴちぴちヤングギャル♪
荷物検査のカウンターでは二十代後半の目付きの鋭い検査官が僕のバックパックを全部開けて、隅々まで調べる。
まあ、パスポートのスタンプを見れば僕がただの旅行者だとすぐ分かる。
バックパックにはパリやロンドンの市内地図の他にフランス語・スペイン語・トルコ語・ギリシア語・英語などの辞書が詰まっているので検査官は口笛を吹いて "Vous etudiez beaucoup."(よーけ勉強しやはるんやね)とフランス語で感心するので"Non, seulement par plaisir"(ちょっとした気晴らしでんがな)と返してやる。
これは実は冗談でやっているのではない。
この後ロンドンからNYへ飛んでJFKで入国審査を受けた時は、アメリカのビザをバルセロナで取っていた理由を聞かれて『スペイン語を勉強していたんです』と答えた。
すると、急に "Entonces habla espaol."(じゃあ、スペイン語しゃべれはんのやね)とスペイン語で聞かれた。
この時はパスポートを増冊合冊していてなかなか汚くなっていたし、パリで撮った写真ともともとのパスポートの写真が自分で見ても全く違っていた。
手持ちの金も少なかった上に、出国切符も持っていなかったので入国で問題になるかなとは思っていたのだ。
"Si , pero he todo olvidado."(そうでっけど、皆忘れてしまいましたんねん)と答えてヒスパニックの入国審査官を納得させてしまった事がある。
ただ、このスペイン語は完全には正しくない。
ただ勉強はしているということはわかる程度だ。
ビザの申請時や入国審査でのなにげない世間話は結構引っかけが多いので、気を緩めてはいけないよ。
イスラエルへ入国したところに、銀行がなくてちょっと慌てたが、表で待っていたサービスタクシーは3JDでエルサレムのダマスカス門の前まで運んでくれた。
午前10時半。
商店が全部閉まっているので休日かと思ったが今日は水曜日だ。
同じタクシーに乗ったフランス人2人組に聞くと『アラブ人はストライキの最中だ』との話。
僕は地図を持たないのでこの2人にくっついてダマスカス門からエルサレム城内へと入る。
フランス人はホテルを決めてあるらしいが、僕が『地図もないし宿も決めてない』と情けない声を出すと、エルサレムの中の細い道をうろうろして、ヤッフォ門にある『クリスチャン・インフォメーションセンター』へ連れていってくれた。
ここはキリスト教徒のための案内所だ。
宿の事を聞くと、斜め前にある観光案内所を紹介してくれた。
そこで英文の地図と観光パンフレットを山のようにもらう。
すぐ横の『ニューインペリアルホテル』を紹介してくれた。
ちょっと古ぼけているがきちんとした大きなホテルだし、城内にあるので便利だ。
33号室、シングルで10ドル。
ここでこの値段なら安い。
部屋のベッドに横になって目をつぶると、遠くから砲声が聞こえる。
戦争でも始まったのか?
でも、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地エルサレムで死ぬのなら、それもまた神の定めだ。
【旅行哲学】危険だといわれる国境を超えるときは死を覚悟する。
http://d.hatena.ne.jp/worldtraveller/20050223